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2005年6月24日 (金)

ベルリン国立バレエ団『ニーベルングの指輪 −“指輪”をめぐる物語−』

2005年6月24日(金)&26日(日) 東京文化会館

[振付・演出]モーリス・ベジャール
[音楽]リヒャルト・ワグナーのオペラ『ニーベルングの指輪』4部作に基づく変容の物語
[台本]フィリップ・ゴドフロワ、モーリス・ベジャール
[ピアノ演奏]エリザベット・クーパー

初来日したベルリン国立バレエ団によるもうひとつの上演作品は、巨匠モーリス・ベジャールの超大作『ニーベルングの指輪』。4夜にわたって上演される物語を1夜にまとめるわけだから、休憩挟んで優に5時間。踊る方もたいへんだが、観る方もたいへんな代物である。

弁者:ミカエル・ドナール
さすらい人:アレクセイ・ドゥビニン
エルダ:アリアンヌ・エルネスティ
ローゲ:ウラジーミル・マラーホフ

−神々−
ヴォータン:アルテム・シュピレフスキー
フリッカ:ディアナ・ヴィシニョーワ(24日)/ヴィアラ・ナチェーワ(26日)
ドンナー:マルチン・クライエフスキー
フロー:ライナー・クレンシュテッター
フライア:ベアトリス・クノップ

−巨人の兄弟−
ファフナー:マルチェッロ・ピヴォトー
ファーゾルト:マティアス・ボルター

−小人族−
アルベリヒ:マルティン・ブチェコ
ミーメ:ディニュー・タマツラカル
ライン河のノルン三姉妹:マリアン・ジョリー、セブネム・ギュルゼカー、マリア・ジャンボナ
ブリュンヒルデ:ナディア・サイダコワ/ディアナ・ヴィシニョーワ
8人のワルキューレ:マリア=ヘレナ・バックリィ、ソラヤ・ブルーノ、ヨハンナ・ハン、マリアン・ジョリー、エレーナ・プリ、ガエラ・プジョル、エロディ・プナ、ナディア・ヤノフスキー
ワルツ(ヴォータン):アルテム・シュピレフスキー
その妻:ビルギット・ブルックス
ジークムント:イブラヒム・ウェーナル
ジークリンデ:ポリーナ・セミオノワ/コリーヌ・ヴェルデイユ
フンディング:ロベルト・ヴォラート
フンディングの手下:ドミトリー・ブルガコフ、マリアン・ラザール、ドミニク・ホダル、ヴォルフガング・ティーチェ、ダリウス・プリル、デヴィッド・シミック、オリヴァー・ヴルフ
バッカスたち(火の環):エミリー・アーチャー、イアナ・バローヴァ、マルティナ・ベックマン、セブネム・ギュルゼカー、アンナ・フック、ナターリア・ミュノズ、エレーナ・プリ、ブレンダ・サレ、ゼニア・ヴィースト
ジークフリート 子供時代:マリアン・ヴァルター
        青年時代:ミカエル・バンツァフ
2羽のワタリガラス:オリヴァー・ヴルフ、ヤン・ヴァンデンホイテ

−人間族−
グリムヒルデ:ヴィアナ・ナチェーワ/バーバラ・シュローダー
ハーゲン:ヴィスラウ・デュデク
グンター:マルティン・シィマンスキー
グートルーネ:エレーナ・プリ
人間族の屋敷の人々:イアナ・バローヴァ、マルティナ・ベックマン、サラ・メストロヴィック、アリアーナ・ピッツィ、ガエラ・プジョル、ブレンダ・サレ、巣山葵、アルシャ・ガルーミャン、マルチン・デムク、クリスティアン・クレール、エイメリック・モッセルマンズ、スヴェン・サイデルマン、デヴィッド・シミック、マリオ・ヘルナンデス
※登場順

【第1部 ラインの黄金〜ワルキューレ】

原題は『RING UM DEN RING』。日本語に訳せば、“指輪をめぐる円環”といった感じか? ベジャール曰く、「重要なのは『指輪』をテーマにバレエを創ることであり、『指輪』の筋をバレエの形で再現することには、さほど関心がない」。実際に観た後では、中途半端に情報をインプットせず、まっさらな状態で作品に臨み、完膚なきまでに圧倒されるのもありだったかな、と。ンが、オリジナルとの違い(人物造型とか全体の構成とか物語の帰着点とか)や振付におけるライトモティーフの踏襲など、知っているからこその楽しみが存在したのも確か。とりあえず、もっと音楽を聴き込んでおけばよかったわ……ってのが、正直なところかも。

オーケストラピットの中央に花道のような通路、両脇にはピットへ降りる階段。下手にグランドピアノ、上手に古びた木製の机。その上には、台本らしき本やデスクスタンド、オープンリールのプレイヤーが置いてある。下手側上部にはバルコニー、その下に大きな扉。舞台奥を鏡張りの回転ドアが占め、さらに、その背後にレンガ造りの高い壁が聳えている。

なんつーか、よくも悪くもベジャールらしいというか、バレエに対する思いが通奏低音のように響く、一種のメタシアター的構造。装置はあたかもリハーサル室のようであり、神々は、登場早々、バーに並んでポーズを決め、神性を剥奪されたブリュンヒルデはトゥシューズを脱ぎ、グリムヒルデはパンプスとトゥシューズを片足ずつ履く。レッスン風景のようなシーンがあれば、『春の祭典』のパロディのようなシーンもあり、そのうえ、本来なら伴奏に徹するピアニストまでが物語世界に絡む。

初日を観た時は、「予習に『指輪』の映像(楽劇の方)を観たのは失敗だったかも」と、激しく後悔したものだが、2回目を観た時は、ワグナーの『指輪』が目の前で繰り広げられているベジャールの『指輪』に二重写しとなって蘇り、より深い感動を味わえたような気もする。とは言え、「特別録音によるテープ」とピアノ演奏だけの音楽、あるいは、中途半端な弁者の語りや字幕に、時として激しい欲求不満を感じたのも事実だ。

《ラインの黄金》

ラインの川底に眠る黄金をめぐり、せめぎ合う神々、巨人、小人たち。
まずは、さすらい人が登場。オケピには知の女神エルダとライン河のノルン三姉妹。さすらい人は知識の泉を枯らし、その代償に片目を失う。そして、世界樹トリネコの枝で槍を作り、それをヴォーダンに渡す。つまり、さすらい人は物語世界をヴォーダンに託し、自分は傍観者の役割を担う。さらに、狂言回しとして全編に登場する火の神ローゲ、ト書きや歌詞の一部を物語る弁者、舞台で行なわれていることに反応を示すピアニストなど、外側からの視点がいくつも存在する。こうした重層的な構造がベジャールの『指輪』の特徴と言える。

続いて、神々の登場。ワタクシ的には、フリッカのディアナ・ヴィシニョーワに尽きる。彼女の残像が目に焼きついて離れず、別の日に観たヴィアラ・ナチェーワのフリッカが何と小さく見えてしまったことか。
川底に眠っている黄金の塊は天井から下りてくる。う〜む、やはり男根を模しているのかしらん?

最後は、陰鬱な空気を一掃するためドンナーが雷鳴を起こし、フローが虹の掛け橋をワルハラ城へ渡す。ここしか見せ場のないドンナーのマルチン・クライエフスキー、まさに空気を一新させるような踊り。清々しい。

虹の掛け橋は7人のダンサーが色違いの扇(赤橙黄緑青藍紫かな?)を持って登場。さらに、装置の壁に走るギザギザの亀裂も掛け橋に見える。このまま神々はワルハラに入城するかと思いきや、ヴォーダンがエルダを篭絡、ブリュンヒルデが産まれ、8人の姉妹と共にワルキューレとして育てられる。

ホヨトホー! ホヨトホー!
ハイアハー! ハイアハー!

黒のボンテージに身を包み、頭には羽根の生えた黒の兜、手には槍。腰をひねり、脚を高々と上げるブリュンヒルデ。最初に観たナディア・サイダコワはここが弱い。逆に、ヴィシニョーワはここが最高に素晴らしい。苦もなく上がる脚を観ていると、戦場を目指して今にも飛び立ちそうだ。

エルダのアリアンヌ・エルネスティはスキンヘッドに全身白塗り。ヴォーダンの娘を産んだ“愛人”ではあるが、神々の中で誰よりも威厳があり、神秘的かつ理知的。しかも、深い慈愛に満ちている。
ローゲのウラジーミル・マラーホフが表情豊かで小芝居も多く、観ていて飽きない。

《ワルキューレ》

双児の兄妹の数奇な運命、非道の恋。父ヴォーダンと娘ブリュンヒルデの苦悩と別れ。
愛を断念したアルベリヒがラインの黄金で作った指輪は、ヴォーダンが狡知によって取り上げ、ワルハラ城の建築費用に使われた。しかし、もし指輪がアルベリヒの手に戻ったら、それはすなわち神々の終焉を意味する。そこで、契約に縛られて身動きできない自分に代わって指輪の奪還を託すべく、人間の女との間に双子ジークムントとジークリンデをもうけるヴォーダン。

双子のパ・ド・ドゥはポリーナ・セミオノワしか印象に残っていない。ジークムントのイブラヒム・ウェーナルにはその役が持つ悲劇性──孤独な勇者がジークリンデとの束の間の愛に喜びを見い出すも、結局はヴォーダンに命を奪われる──がまったく感じられないし、コリーヌ・ヴェルデイユのジークリンデは所帯臭さが鼻につく。

ここでもフリッカのヴィシニョーワが圧倒的な存在感を放つ。婚姻の女神であり、虚栄心が強く嗜虐的。そして、子供を産まない妻。チラシに使われている写真と同じポーズを目にした時の爽快感と言ったら! まさに、「キターーーーーッ!」って感じ(笑)。

もちろん、彼女はブリュンヒルデの方もよかったっすよ。父親に溺愛されている跳ねっ返り娘が、真実の愛を目の当たりにして、自己犠牲に目覚めていく心の動きがよくわかって。ただ、終盤のヴォーダンとのパ・ド・ドゥになると、シュピレフスキーとの表現力に相違があり過ぎて、通常の解釈(ブリュンヒルデの訴えによってヴォーダンの怒りを感動に変える)とも、ベジャールの解釈(深く愛し合う父と娘は、最後に睦み合う)とも違う関係性が生じていた。なんつーか、父と娘はわかり合えていないような。ま、これは、直前に観た映像の影響もあるかも(そちらの演出では、父と娘のディスコミュニケーションを徹底的なまでに描いていたので)。
ってことで、初日のサイダコワの方が振付家の意図には合っているのかな。

岩山を模したピアノの上で眠るブリュンヒルデ。独特のライトモティーフと共に現れ、燃えさかる番人となるローゲ。ライトモティーフが聴こえるだけで最後まで姿は現わさない楽劇の方が、その存在をより実感できると思うのは私だけ?

【第2部 ジークフリート〜神々の黄昏】

《ジークフリート》

恐れを知らぬ英雄の冒険譚。竜退治そして炎の中での歓喜の絶頂。
指輪を持つファフナーは、竜に姿を変え洞窟に潜む。アルベリヒの弟ミーメは、ジークリンデが産み落としたジークフリートを略奪し、彼にファフナーを殺させようと目論む。そこへ現れる、さすらい人と火の神ローゲ。さすらい人はミーメに首を賭けた知恵比べを申し出る。

子供時代のジークフリートの使い方が効果的。マリアン・ヴァルターが役柄にピッタリで可愛いし。青年時代のミカエル・バンツァフもゲルマン的闘争性を備えた、いかにもおバカな、もとい、天真爛漫な英雄で、恐れを知らない“純粋な愚か者”らしさが出ていた(髪の生え際がマニュエル・ルグリ似?)。ふたりのジークフリートを登場させるのは、自己との対話、あるいは、自己確認の意味もあるのだろう。

ホーホー! ホーホー! ホーハイ!
ホーホー! ハーハイ!

ノートゥングを鍛える場面におけるジークフリートとローゲの絡みも面白い。
ミーメの造型も秀逸で、演じるディニュー・タマツラカルが巧いのよ、また(歌声まで披露)。

ンが、一番印象に残ったのは、振付におけるライトモティーフの提示。知恵比べも字幕なしで答えがわかるし、ジークフリートの両親への想いもすんなり納得できるし、さらに言えば、ブリュンヒルデが目覚めた後のジークフリートとのパ・ド・ドゥも、いつしかジークリンデとジークムントのそれと重なることで、ブリュンヒルデがジークリンデの“母親の愛”も引き継いでいることがわかるのだ。

ここのサイダコワは、ひとりの女性としての愛情だけでなく、ジークフリートの叔母(伯母?)であり、名付け親であり、ジークリンデの“母親の愛”も引き継いでいるという、何とも大きな愛情を感じさせる見事なブリュンヒルデだった。

《神々の黄昏》

指輪の呪いがジークフリートを襲う。ワルハラ城炎上。すべてを飲み込むライン河。
ノルン三姉妹が紡ぐ運命の綱が切れる。ジークフリートはブリュンヒルデのもとを旅立つ。アルベリヒは人間族ギービッヒ家の女王グリムヒルデに息子ハーゲンを産ませる。

とにかく、グリムヒルデの造型が衝撃的。片足にパンプス、片足にトゥシューズ、まるで娼婦のような毒々しさで登場する。富と引き替えに(あるいは、レイプ?)憎しみの子を産んだ結果、彼女は車椅子に乗る羽目に。その姿は“愛の断念”を象徴している。

ハーゲンの夢の中に現れ、指輪奪還の使命を忘れないように諭すアルベリヒ。マルティン・ブチェコとヴィスラウ・デュデクによる親子のパ・ド・ドゥは、悪の魅力が迸り圧巻。父親の意志を継いで指輪を奪還しようとしていたハーゲンは、いつしか己のために指輪の奪還を誓う。パ・ド・ドゥの最後は父親殺しを示唆している?

神々の終焉は止められない。ギービッヒ家で繰り広げられる出来事を、神々はバルコニーから、さすらい人は舞台の縁に客席の方を向いて腰掛けながら、ただ見守るのみ。

当主グンターとブリュンヒルデ、グンターの妹グートルーネとジークフリートの婚礼。ジークフリートに裏切られたと思ったブリュンヒルデは復讐の鬼と化し、ハーゲンとグンターによるジークフリート殺害に加担してしまうが、ジークフリートは忘れ薬を飲まされていただけで(まさに“純粋な愚か者”)、解毒剤によって過去を思い出していく。ちなみに、この回想シーンでも、振付におけるライトモティーフの提示が効果的に使われていた。

ラスト、すべてを理解したブリュンヒルデはジークフリートの遺体を焼き、「あなたの妻が、今おそばに!」と、自らもその焔の中に飛び込む。ブリュンヒルデが火の神ローゲを相手に踊るワルツ。壮絶なまでの悲壮感とマラーホフの凄まじい笑顔、忘れ難い。

ただ、最後の言葉がブリュンヒルデのものとして響いてこないのよね。弁者に語らせるのが果たして効果的なのか? しかも、最後の最後にさすらい人を登場させてしまったら、物語の帰着点が違わないか? 最終シーンの音楽に『パルジファル』第1幕前奏曲を持ってくることで、ベジャールは女性原理(=愛による救済)を否定しているのか? 『ニーベルングの指輪』って、男性原理(=契約や指輪の力による世界支配)がもたらした破滅を女性原理が救うンだと思っていたが……。う〜む、このあたりの疑問はこちらの知識不足が原因かも知れん。とりあえず、輪廻を断つと言いながら、まさにその輪廻を感じさせる終わり方はベジャールらしいよな(ま、一般的にもそういう解釈は多いし)。

あ、あと1989年の「ベルリンの壁崩壊という社会事件になぞらえたタイムリーな現代性」は、あまり感じなかったな。21世紀を迎え、新たにベルリン国立バレエ団向けに改訂されたからかしらん?

最後に、ローゲと弁者について。
まず、ローゲはどう考えてもジル・ロマンありきのような。本来なら《ラインの黄金》にしか出てこないローゲを全編通して登場させているのは、ジル・ロマンという稀有なダンサーがいたからでしょう。そういう意味では、マラーホフってどうなんでしょう?(ぢつは、一番ベジャールらしからぬダンサーに思えてしまったのよね)

意味もなく音を伸ばしたり、妙な高低をつけたりしていることを考えると、弁者は義太夫の語りをイメージしていると思われ。ンが、それがあまりにも表面的な真似事に終始しているので、怒るどころか呆れてしまった。「義太夫は役者の心を語り、役者は義太夫の心を語る」ことで、初めて芝居が成立するのよ。それに、舞台で発せられる言葉に説得力を持たせるにはどれほどのスキルが必要なのかを、ベジャールが本当に理解しているのかも疑問。ミカエル・ドナールの佇まいは悪くないンだし、単に筋をわかりやすくするための存在なら、もっと普通に喋らせておけば……ってゆうか、そもそも言葉に頼るのは如何なものか???

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